1991-04-18 第120回国会 参議院 農林水産委員会 第8号
例えばということでお許しいただきたいんですが、ヨーロッパなんかに必ずあります林業労働学校というものをつくって、いわゆるマイスターの教育をきちっとする必要がある。言葉をかえていけば、日本の林業従事者というのは、先ほど小塚参考人から御紹介いただきましたように八Kですか七Kですか、こういう認識がある。
例えばということでお許しいただきたいんですが、ヨーロッパなんかに必ずあります林業労働学校というものをつくって、いわゆるマイスターの教育をきちっとする必要がある。言葉をかえていけば、日本の林業従事者というのは、先ほど小塚参考人から御紹介いただきましたように八Kですか七Kですか、こういう認識がある。
いわゆる命令を出す前の段階で、職務上、いわゆる審問という手続が行われて今はもう結審になっているわけですが、その審問の手続上知り得た秘密をいわゆる鉄産総連の労働学校で述べている、そこが大問題なんですね。これは、大臣のお考えは全く私は逆ではないかというふうに思うんですよ。
高梨公益委員は昨年の六月、鉄産総連の労働学校で講師として招かれて「労使関係と労働委員会制度」と題して講演をいたしておりますね。この講演内容に関しては、これは公益委員としての適格性を欠くものであるということで、さまざまな法律団体や労働組合から辞職の要求、罷免の要求、こういうものが出されていると思いますけれども、いかがでしょうか。
ことしじゅうに労働基準法の見直しをしなければならないわけですから、その際、九三年四月から完全週休二日制、週四十時間労働、学校の五日制の実施を明確にすべきであります。お答えいただきます。 消費者物価の内外価格差、つまり諸外国に比べて我が国の物価が高いという問題はなおざりにされたままであります。食料品など、ニューヨークより東京が大方四割も物価が高いのは問題です。
国労と対立、競合の関係にある鉄産総連の労働学校において、国労本部を中傷しているんです。中労委の公益委員が、申し立て組合の指導部に何一つ根拠も示すことなく、あからさまな非難を浴びせているのであります。これは公益委員としての資格が根本的に問われる発言だと言わなければなりません。 以上のような高梨発言は、労働者と労働組合に非常に大きな驚きと憤りをもって受けとめられています。
○諫山博君 ことしの六月一日に中央労働委員会の高梨公益委員が鉄産総連の労働学校で講演を行っています。それが労働組合の間で今大問題になっています。鉄産総連の機関誌に掲載されていますが、労働大臣お読みになりましたか。
放送法第一条の不偏不党であるという、そういう教育ぐらい社内でやっていなければ、この労働運動は、この運動の中にも学習、労働学校学習というものはいっぱいやっているわけです。労働組合の方が一生懸命で集めては反体制運動の教育をやるわけだ。
そこでこの際、日本は海の国として港湾の作業というものは非常に必要でございますけれども、そういう技術水準をある程度持った港湾労働者を確保していくという点で、この際たとえば、これは仮の名前でありますが、港湾技術専門学校とかあるいは港湾労働学校とか、そういうようなものをつくりまして政府が積極的にそれに助成をして、そういうところである程度いわゆる給費生として訓練をして、港湾でそういう人たちが働いていく、そういう
かくて、君は、大阪、神戸に相次いで開設された労働学校において労働者の教育に従事し、さらに、大正十三年、東京に発足した政治研究会の神戸支部長となって、無産政党樹立を目ざし、懸命な努力をされました。大正十五年には、日本労農党に入党し、わが国の無産政党の草創期において、目ざましい活躍をされたのであります。
鈴木君は、単に一学究に甘んずるをいさぎよしとせず、いち早く社会運動に注目し、自己の研究に精進しつつも、友愛会労働学校の講師として労働者の教育に従事し、また、革新陣営の人々の応援に奔走するなど、若い日の君の活動は実に目ざましいものがありました。
従来の労働教育の実績から見ましても、かつて滝井先生から御質問がございましたように、労働学校なり夏孝大学等がだんだん減ってきておるのではないかというような御質問もございました。こういう面は従来の労働省の予算ではなかなかまかない切れない面が多々あるわけでございます。従いまして、この民間団体の自由な活動の分野におきまして、そういう面の是正をはかっていきたいという趣旨がねらいでございます。
なおちょっと私の承知しておることと違っておると思いますのは、労働学校は現在なお存置し、その仕事を続けていると承知しておりますので、その経過等につきましては労政局長から説明をいたさせます。
先ほど大臣のお話もありましたような方針にのっとりまして、われわれもなおこの方向についての労働教育の徹底、またその中の一環としての労働学校的な動き、こういうものも検討してみたいというふうに考えております。
実は今から五、六年前、昭和二十五、六、七年ころまでは各労政事務所ごとに労働学校というものがあったのです。私も当時労働学校の先生をしておりましたが、これによりまして、中堅労働者を集めまして教育をしていったのです。ところがそれがいつの間にか消えてしまった。なせ消えたかというと、資本家側の反対で消えてしまった。
君は、また、つとに青少年の教育に特別の関心を持たれ、特に教育の機会に恵まれない者に深い同情を持ち、さきには真龍女学校を創立してみずから校長となり、後にはまた労働者教育のために東京労働学校を設立してその校長となるなど、常に社会教育については献身的な努力をいたされました。 大正九年の第十四回総選挙に、君は東京第七区から選出せられて、衆議院議員となられました。
例えば労働学校において新入社員を教育する場合に、非常に片寄つた、例えばいわゆる左派或いは共産党系の講師だけを呼んで、それに対抗すべき保守系は、これは或いは必要ないかも知れませんが、右派とかそういう方面の講師を招請をしない。大会においで演説させる人間は殆んどいわゆる左がかつた人間ばかり演説させる。
ところが労働組合の教育機関というものは労働学校を持つておるところもあります。ところが多くは職場の片隅で、而も昼の仕事を外れて夜の薄暗くなつてから、僅かな一つの電燈を頼りに十人、二十人のグループが集まつてそこで研究が行われるのであります。これは日常毎日行われることでありまして、而も又環境だけでなくして、そこで取扱われる問題がやはり生きた学問であります。即ち歴史にも及びましよう。
○政府委員(吉河光貞君) 組合が組合員の教育をするために労働学校を作られたり、或いは只今御質問のような職場の片隅で寸暇を利用して教育活動をされるということは、お話としていろいろな指導者のかたがたからも聞いております。併し教育活動は本条に触れるものではないと考えておる次第であります。
○井手委員 そうすると、いわゆる党の方針によつて労働教育をやつて、労働学校の講師をしておるというのですが、その間労働学校というものを放棄して、からだをあつちこつち動かせる余地があつたのですか。
○井手委員 そこで、昭和二十二年の春に労働学校を閉鎖したが、あなたは労働学校を開いておつた当時は、ほかの地方にからだを移したことはありますか。
これに対しまして、中小企業においては、労資双方を教育することによつてその振興をもたらすという見地から、労働教育の必要を痛感し、政府も又その点に努力を拂い、或いは労働学校とか、或いは短期講習とか等におきまして、労働基準法等の普及徹底を図ると同時に、末端の基準監督官、労政事務所と連絡をとつて、指導に当つておるのである。
○政府委員(賀来才二郎君) 只今御指摘の通りに、直接我々のほうの所管ではございませんけれども、御承知のように労働問題の起つておりまする状況を見ますると、やはりただ組合法の問題或いは労調法の問題というふうに分けまして、セクシヨナリズム的な活動をやつて行きますだけでは解決がむずかしい、やはり総合的な立場において問題を解決して行かなければならないというふうなこともございますので、労働学校でありますとか、或
○江川証人 それは昭和二十二年ごろ、永山正昭の家におきまして、若松の西日本石炭輸送株式会社に親睦団体としてあります同志会、その同志会の中に青年部というものがありまして、その青年部の労働学校というものを、永山正昭の家で永山正昭が主催して開いておつたのであります。それで私も永山正昭の勧めによりそこに行きまして、そこでいろいろ教育を受けました。
先ず、岡山を振出しにいたしまして、岡山の労働基準局、公共職業安定所、同じく地方労働学校、同じく岡山では労働基準監督署、それから岡山縣議会議事堂で労資懇談会を開いて一日の日程を終つたのであります。 それから廣島へ参りまして、三原車輪工場を視察したのであります。それから東洋レーヨンに帝国人絹、尚又その人絹の宿舎等を視察して第二日目を終つたのであります。
二、組合健康保険制度の再建、療養所設置、労働学校の設立等を笑施せらるる意志なきや。三、職場規律を確立するために、特に立方手段をとる意志なきや。四、政府の考えておられる賃金新ベース三千七百円で、物価改訂とはたしてうまく調整できる自信ありや。